取捨選択の分かれ道

月日が経つのはあっという間で、もうクリスマスを一ヶ月後に控えた晩秋のある日。

なのに妙に続いている季節はずれの暖かさで、春と勘違いした庭先の狂い咲きのクロッカスの紫色が目に鮮やか。

そんな何かおかしい、何かが違うと感じながらも、その春先のような温もりの刹那に、このまま身を任せてみても

いいかもな、そう感じていたりもする今日この頃。


確かになりゆき任せにしては、あまりに自然で。

でも結局は、それが本来の人としてのあり方というものなのだろう。

どこかで初めて出会った人と、というのもよいかもしれない。でも、それがなかなか叶わなかった自分には、

もしかしたら似合いの相手なのかもしれないし。それでも、どこかで何かが手招きしている感覚が、

いつでも必ず自分自身の内にあることも確か。それは決して、この手の届く地続きの現実では得られない、

そんな夢まぼろしのようなものかもしれないけれど。

少しずつ変わっていく日々の自分を幸せだと実感するほどに、確実に取りこぼしていくものがあることをも知ってしまう。

それほどまでに時間というものは残酷なのだ。そしてやはりその「どちらをも」大事にしていくことは難しいのだと知る。

孤独であるということは自由そのもの。その孤独という名の自由を文字通り謳歌していた、これまでの自分。


おそらく誰かと暮らせば、その自由はたちまち失われてしまうのだろう。それでもその誰かによって、これまで

見ることの叶わなかった風景を生まれて初めて手に入れることもでき、そこから初めての感覚を自分のものに

することもできる。それでもやはり、私には一人であるという孤独は必須だ。それによって何だかんだで

培われてきた、これまでの自分がいる事実を知る度に。


それは多分、もう一つの私自身の現実。

こうして、ただとりとめもなく文字を記して、自分だけの時間を言葉にするだけで、少なからず確かな自分が積み上がっていくのを実感する。それは誰かといて話している瞬間には生まれることのない充足感。孤独が私を育て、そこからの窓でしか語れない真実がある。そして同時にそれを犠牲にすることで、幸せという目に見えない温もりを得ることができることも知ってしまった。


結局、人間は欲張りなのだろう。そしてあれもこれもでは何一つ得られないのもまた、ひとつの真実。だから何かを諦め、何かを選ぶという取捨選択の方法で行く道を決め、その選んだ一本の道を曲がりなりにも極めることで自分自身を何とかして納得させる。人生に残された時間は僅か。その残された時間をどう使うか。どうせならば、決して後悔しない使い方をしたいものだ。


そして、その実やりたいことだらけの自分自身を省みては嘆息する。自身がめざしたいライフワーク的な創作活動は

勿論のこと、基本、衣食住それ自体を根本的に楽しみたい自分(笑)。そこはやはり五感に優れた牡牛座生まれならでは

の感覚なのだろう。究極的にロジカルに論じてみたい時もあれば、決してロジックでは語れない瞬間もあることを

知っている。言葉の快楽、文章を組み立てることに面白味を実感することもあれば、その肌で感じる、感覚そのものを

大切にしたいと感じることもある。

リアリズムと想像力、その両方を駆使して、自分なりに自分自身の占星術というものを形にしてみたいと思ったりも。

まことに人によって、その占星術へのアプローチ法も微妙に違うもので、その星座ならではの占星家の仕事があるのも

実に面白いと思う。であるなら、牡牛座の私自身のそのアプローチ法というのは、ずばり音楽ではないかと思う。

そこに星の言葉、ポエティックな詩の表現を加えてみたら、きっと個性的で面白いものが生まれるのではないか。

そう考えて、ずっと胸の内で人知れずあたためてきている、それ。


そしてほぼ同時進行で(無謀にも、笑)これも自然信仰へと連なる神話の物語を、オタク腐女子の生態も絡めて

メタフィクション的アプローチによってオリジナルに表現してみようとずっと試みている、一度挫折しかけた

自作小説にも再度リベンジしてもおり。二兎を得るものは一兎も得ずというのにも負けじと、ほぼ二足の草鞋を

履く決意で純粋に創作それ自体に挑もうとはしているのですが、、、


そのどちらか一つでも実現できればしめたもの。そういう厳しいリアルにあって、その夢を実現できるのもできないのも、それもやはり自分自身の才能という能力のウチなのだなぁと嘆息するばかり(笑)。ただ石の上にも三年の言葉の通り、

ただひたすらコツコツコツコツを積み重ねていくしかないにしても、やはり現実的には、この10年で何がしかの答えを

出さねばと感じている昨今。

それともどれか一つを選択し、やはり何かを犠牲にしなければ、それは無理なことなのだろうか。決して夢と愛情とを

天秤にかけたくないとは思うけれど、、、自分自身の生活という日々の基盤。そのありふれた日常があるから夢という

自由の翼を持つことができるとも言える。そして誰か支えてくれる人がいれば、さらに幸福(しあわせ)で。でも、

そんな贅沢はおこがましいと、欲張りすぎると、やはり多少ストイックに自分自身を追い込まなければならないのだろうか。


愛とは、決して向き合ってお互いだけ見つめあうのではなく、できれば同じ方向を見つめていくものだと個人的には謳ってみたいものなのですが。多分それができない人とでないと続かないかもしれない私は、おそらく限りなく孤独大好きな個人主義人間なのだろうな。たとえ独りぼっちでも全然寂しくないというのは、むしろ趣味以上にあらゆるものを楽しむことができるという、自分自身のひとつの才能みたいなものかもしれないけれど。

星詩生活-ほしうたぐらし- lucam's Ownd

旧サイト「言の葉工房」(since.2002)より移籍、改訂。     ――夢、うた、sensibility あたらしい世界をめざして...               星の奇跡は、あなたを裏切らない                                                                          Prodused by.luca minamoto

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